【こんなところにサワジェンヌ】今はまっているのはZOOMお茶会♪自宅で過ごす時もお洒落を忘れない

「今、はまっているのはZOOMお茶会。カメラの向こうに誰かいると、家にいてもちゃんとお洒落するし、お化粧もして気分があがります。お洒落もおしゃべりも、人の免疫力上げると思います。」

こう話すのはフリーアナウンサーの木谷美帆さん。

関西の方なら、一度はお声を耳にした事があるのではないでしょうか?

ラジオ関西など、主に関西圏のラジオ局の番組でパーソナリティを務めてらっしゃいます。
サワアラモードの本社のある滋賀でも長い間、e-radio エフエム滋賀でパーソナリティをされていました。

まさに「鈴を転がすような」という表現がぴったりの、澄んでいて通る、それでいてとてもチャーミングなお声の木谷さんの半生についてお話をお聞きしました。

<経歴>

1994年 株式会社エフエム山口入社 アナウンサーとして勤務

2001年 独立してフリーランスのアナウンサーに、関西を中心に現在まで活動中

2020年4月現在は

ラジオ関西「歌声は風に乗って」(リクエスト番組)
「西松屋presents 美帆の子育てそれいいね!」 を担当

ラジオ大阪 アナウンススクールで、アナウンス講師

各種イベント、式典の司会、講演、ボイストレーナーなどフリーアナウンサーとしての仕事に加えて、ミネラルファスティングをサポートするプロフェッショナルファスティングマイスター、意識の活用で、望む現実を創り出す方法を伝える Avatar®︎マスターとして活動中

人生の最初の転機

--アナウンサーになりたいと思い始めたのはいつでしたか?何かきっかけはありましたか?

高校生の時、当時のフジテレビアナウンサーの逸見政孝さんが本を出版されて、たまたま立ち寄った書店に来られていたので、せっかくなので何か話してみたいと思い、本を買ってサインしてもらったあと、思い切って逸見さんに、

「私もアナウンサーになれますか」

って質問してみたんですよ。
そうしたら逸見さんが

「大丈夫だよ。今高校生だったら勉強して、まずは大学に行きなさい。」

って言われて、それで初めてアナウンサーっていう職業を意識しましてね。それまであまりなんか進学とかはっきり考えたことなかったんですけど、とりあえず大学に行けばいいのかと思ってそこから受験勉強を始めたという経緯があります。

大学は心理学にすごく興味があったので、心理学の学べる大学という基準で選んで受験をしました。
本当は多分東京のいわゆる有名大学に行った方がアナウンサーになりやすかったと思うんですけど、いくつか受けて落ちたのと、東京が都会すぎてなんか自分にはあわないなと思い、大阪の大学で心理学が学べる学部があるところを受験し、入学しました。
ただ結果的には勉強よりも、サークル活動やバイトにばかり力を入れ、後半は大学生活と並行して、アナウンサー養成校に通っていたので、どの大学に行っていても同じだったかもしれません。

私に影響を与えた○○

そして、私に大きな影響を与えたのは歌手の桑田佳祐さん

「音」と「言葉」で愛を伝え続ける伝道師。サザンオールスターズがデビューした頃には、まだ小学校低学年でしたが、 衝動的なメロディに心を射抜かれ、その頃からずっと変わらずファンを続けています。

ラジオから音楽を聴くことが大好きで、ラジオパーソナリティになれば、一生ラジオで音楽を聴いていられる、いつか桑田佳祐さんにインタビューしてみたいと憧れて、今に至ります。

実際には、桑田佳祐さんにインタビューしたことはまだありませんが、好きすぎて、直接あったら気絶するかも。ちなみに原由子さんにインタビューさせていただいたことがありますが、緊張しすぎて、汗びっしょりになり、何を話したかあまり覚えていません。

--デビューから好きなんて、筋金入りのファンですね!原由子さんにインタビューしたことがおありとは、アナウンサー冥利に尽きますね。アナウンサーというと、テレビを思い浮かべてしまいますが、就職活動では最初からラジオだけに絞って探されたんですか?

今で言う就職超氷河期に入った最初の世代だったので、二つ三つ上の先輩方と全く状況が変わって、企業が大学卒の女子をなかなか採用してくれないという時代になっていました。そこでもう腹をくくって放送局しか受けないって決めたんです。

北は北海道から南は鹿児島まで放送局ばかり16局受けました。
ほぼ地方局です。あまり東京に行きたいという思考がなかったし、受けても地方の大学から合格は難しいと思ったので。

どこでもいいから、とにかくラジオでお仕事したい思いが強かったんです。
それは就職活動の途中ではっきり気づきました。

テレビ局の入社試験を受けている時に、カメラ映りのテストをされ続けているうち、テレビの仕事疲れるなぁと感じ始めて、途中でラジオ局に絞って受験していきました。

そこで最終的に山口県にある FM 山口というJFN系列のFM局に内定をもらい、晴れてアナウンサーとして社会人生活をスタートさせることができました。


▲お洋服を選ぶ基準はお洒落なだけじゃなく着心地がいいこと

アナウンサーとしての経験

--晴れて夢だったアナウンサーになれたわけですね。アナウンサー生活はどんなものでしたか?

放送局のあった山口市は、県庁所在地がある市としては日本で一番人口が少ない町なんです。
当時住んでいた家の自分の最寄り駅が「山口駅」だったんですけども夜は明かりがほとんどなくて、はじめは寂しすぎて、慣れるまではよく涙を流していました(笑)。

「アナウンサー」として採用されましたが、とにかく幅広く色々な仕事をさせてもらいました。4月1日に入社式で辞令をもらって正式に入社なんですけど、大学の卒業式終えたらすぐ山口に行って、放送の基本的なことを1から教わり、入社式当日の夕方から2時間の生放送ワイドをメインパーソナリティーとして1人で担当しました。都会の放送局ならありえない経験です。

22歳で入社して最終的には7年間、30歳になる直前まで局アナとしてお仕事させていただきました。
ニュースを読んだり、ワイド番組でおしゃべりしたりするのはもちろんですけど、7年もいれば途中でどんどん仕事を覚えてきて、番組やイベントの企画や制作など、自分でやりたいといえば何でもやらせてくれる会社だったんです。

今でいう「マルチ」と言えば聞こえはいいですが、表も裏も全部自分でするという感じ。
自分で企画して自分で喋る・・・自作自演です。楽しいんですけどもう本当に寝る間がないという感じでした。 
田舎で遊ぶところもないし大変でしょとよく言われましたが、もし遊ぶ所があったとしても遊ぶ時間が全くなく、仕事=遊び、いつも全力で本気で遊びを仕事にしているという7年間でした。

理由が一つに絞り込めないほど、会社を辞めるには迷いましたし、時間もかかりました。

若さにまかせて、やりたいだけいろんなことをやらせてもらって、自分のやりたいということはほぼ全部やりきったという初期達成感のようなものが見えたのは5年目を過ぎたくらい。
けれど、すぐには辞められませんでした。 

最終的には、ブルドーザーみたいな働き方に体がついて来なくなって、自律神経失調症になってしまったんです。

自律神経失調症ってその人のデリケートで弱いところに症状が出るらしいのですが、私の場合は婦人科系の機能に支障をきたしたようで、生理の周期がめちゃくちゃになっちゃってずっと出血してるという状態になって貧血で倒れてしまいました。

阪神淡路大震災の経験

もう一つの大きな理由は「神戸」に帰りたかったということ。

1995年、阪神淡路大震災が発生の年は、もう社会人として山口で仕事していたんですけど、なんの因果か震災発生の前日、1月16日に、私、神戸に帰ったんです。
被災するために帰省したようなものです。最終の新幹線で夜中に神戸に帰って家族と少し話してから真夜中に寝た、数時間後、翌朝1月17日の午前5時46分激震で目が覚めました。

これ以降の経験を話すともとても長くなってしまうんですけど・・・高速道路が折れて車が落下して横転するというよく報道されたショッキングな現場も目の前で見ました。


▲横倒しになった高速道路

何とか勤めている放送局に連絡しようと、当時は携帯電話も持っていなかったので、崩れ残った、比較的頑丈な建物の中に回線の繋がっている有線電話があって、それにみんなが列を作っているとことに並んで局に電話をしました。

するとそこからレポートをしろという指示が。
当時はアナウンサー1年生で、放送局の腕章をつけているわけでもなく、一人でポツンと不安そうに並ぶ私はとても報道関係者には見えなかったと思います。
でもその電話から生放送の中継を一応やりました。 

が、その場におられた方々にひどく怒られてしまいました。

「俺はここで嫁が死んどるんや!早よ電話かわれ!!」

とすごい罵声を浴びせられ、どうすることもできなくて、泣きながら謝りました。
他にも、思い出すだけで体が震えてくるような経験がいくつもあって、しばらくずっと辛さは続きました。
のちにPTSDと診断されるような症状は10年以上続きます。

震災当日から一週間ぐらいで西宮から大阪まで阪急電車が動き始めました。
ちょうど休暇も終わる頃だったので、とても迷いましたが、勤務先の山口に帰ることにしました。
阪急電車で大阪まで行って大阪から飛行機で愛媛に行って海をわたるルートで山口に帰ってからは、自分が経験した大地震がウソのように平和で、すぐにまた多忙な仕事生活に戻りましたが、被災地のことはずっと気になり続けたまま。
神戸のボランティア団体と連絡を取り合って、その情報を番組で伝えたり、自分も時々帰ってボランティアをしました。

その経緯があったので最終的に会社を辞めるときは
「神戸に帰ってボランティアをします」
と申告しました。

地方局のアナウンサーって辞めると東京に行ってフリーでやりたいって思う方が多いみたいなんですけど、私はその時も東京に行きたいとは思わなかったですね。
ともかく神戸に帰ろうと。実際、帰省して2ヶ月ぐらい休んだ後は体調も良くなったので、ボランティア活動をはじめました。


▲ラジオ関西のスタジオで
2020年3月まで放送していた「時間です!林編集長」の生放送のスタジオ。 林真一郎アナウンサー、作家の玉岡かおるさん、人気ブロガーのまるこさんと

人のご縁ってすごく面白いなと思うんですけど、そのボランティア団体にたまたま取材に来られていたラジオ関西(神戸のラジオ局)の方がおられて、さらに偶然なことにその方同級生のお姉さんで顔見知りだったんです。
そのご縁でいくつかお仕事を頂戴したり、その後もラジオのお仕事させていただくようになりました。 
それが、フリーアナウンサーとして働き始めるきっかけですね。 

毎日放送ラジオや、エフエム滋賀でパーソナリティーを担当させていただいたり、古巣のエフエム山口に新幹線で通ってお喋りした時期もありました。
エフエム大阪で制作をさせていただいたことも。それまでの経験を生かして、ラジオ局でフリーで働けることが楽しくて仕方なかったです。

--神戸の震災は私もよく覚えています。滋賀でもとても揺れたのに、その時に神戸で体験された時はまだお若く、本当に怖い想いをされたことと思います。でも、その時の経験があって今があるんですね。全ての出来事が今につながる・・・運命を感じます。

「声を出す」機会を作ろう

--運命といえば、とても綺麗なお声をされていますが、生まれ持ってアナウンサーになるべくいい声をお持ちだったのでしょうか?

ラジオは「声」で伝えるメディアですので、「いい声を出すのはどうやって訓練したら良いのですか」という相談をよく受けます。

私が最初に発声練習をしはじめたのは、高校時代の演劇部の時。その後は学生時代にアナウンサー養成スクールに通っていたので、そこで本格的に教わりました。
仕事を始めるともう毎日が実地訓練になりますが、学生時代に基礎を学んでいて良かったと思っています。

現在は、ラジオ大阪のアナウンススクールの講師をつとめたり、ボイストレーニングの個別指導などもしていますが、特に基礎発声練習を体づくりから重点的に教えます。

「声」は呼吸の延長であり、体全体を使う運動でもあり、自分を表現する大切なツールでもあります。いくつからでも、楽に、伝わりやすい声を作っていくことはトレーニングで可能になります。

 

「人の前で喋るのにどうしていいか分からないから教えてください」というのも、よく聞かれる質問。 

そこでふと気づくのですが、人前に限らず「声を出す」っていうことの機会が今すごく減っていますよね。

メールやラインなど全て文字だけの伝達で済ませることが多い時代。
それで事足りるというか、用件は済むかもしれないのですけど、私達みたいな仕事をしていると、実際に会話させて頂きながら、その行間から、その方の間とか声の調子とか、お会いしていれば表情とか、そういうところもすごく重要な情報だったりするので、そこが省略されてしまうのはとても寂しいことです。

大げさに言えば、きちんと「声で会話」することは、人間関係の基本だと思っていますが、今、あまりこれを言っていると古臭い人間扱いされてしまうのでしょうか?

--「声を出す」まさにおっしゃるとおりですね。今は何でもLINEで用件を伝えるだけで済ませてしまって、コロナで人と会うことも減っていて、だからこそのZOOMお茶会はとてもいい取り組みですね!私も木谷さんとお話していて、なんだか元気になってきました!

 

苦労したこと

--ところで、いつも元気な印象の木谷さんですが、局アナからフリーに転身されて、ご苦労がおありだったのではないですか?

人から見れば常に苦労の最中です(笑)
仕事がある時はありますが、ない時はないですから。
世界的に新型コロナウイルスの影響もあって不本位で失業しておられる方もおられると思いますが、フリーランスで生活しますとそのような事態はしょっちゅうやってきます。

収入は安定しないですが、そのぶんやりたい仕事を常に本気で選んでやっています。
やりたくない仕事をイヤイヤやるということは、ほとんどありません。
安定と自由を天秤にかけた時に私は自由がいいなと思うタイプなので今のスタイルに大きな不満はありませんから、苦労はないとは言い切れないけど正直、嫌なことはすぐ忘れるようにしているので覚えていません。

▲2019年、妊娠出産で休んでいたマラソンを再開。12月の大阪マラソンに挑戦。Keep My Pace」 でゆっくり完走し、制限時間10分前フィニッシュ直前の自撮り。

もうひとつの大きな転機

趣味でマラソンをしているのですが、当時「神戸マラソン」が新たにできる時(第一回大会の前2010年ごろ)皆で一緒にトレーニングしようというランニングのサークルに誘ってもらい、そのサークルで出会ったのが、主人でした。
私は、自分で絶対結婚できないと思い込んでいて、周りからも「この人は結婚しない人だ」と思われていたらしいですが、子供は欲しかったんですよね。

その時すでに40歳を超えていて、もしこのまま結婚しなかったらもう子供は作りたくても作れないんだなーっていう、ちょっと焦ってた時期でもあって。そこに近づいて結婚したいと言ってくれたのが今の主人なんですよね。

ただもう最初は全くピンとこなくて(笑)私、めちゃくちゃ上から目線で、すごい彼に対して、結婚したいなら・・・と条件いっぱい出しました。

そのうちの一つが、「私、子供が欲しいので、子供作れないんだったら結婚しません」と言ったと思うんです。 
そうしたら彼が、「分かりました努力します」と言ってくれたので結婚しました(笑)。 
幸い妊活にも成功して、子宝にも恵まれました。

現在はとても幸せですが、実は結婚できないと思い込んでいたのには理由がありました。

うちの両親は離婚しているんです。私が仕事を始めた20代のはじめぐらいに突如別れると言い出して。
自分の中では結構ショックな出来事で、あんまりそういう素振りを見せなかったのに、仮面夫婦みたいな感じにしてたんでしょうね。
そこに感じた違和感が恋愛不信みたいなものに繋がって、結婚せずに仕事ばかりしている自分に繋がったようです。

そんな中30代の終わり頃に、人間の「意識」の仕組みを学ぶavatar®︎というコースに参加して、 「結婚できない」自分の意識のカラクリに気づき、一つずつ、できない理由を自分の中で消していったときに、今の主人が現れた感じです。

--私も数年前に初めてお会いした時は、結婚しないタイプの人だと思っていました。笑。でも、今はとっても幸せそう。いいご主人に出会われたのですね。


▲ Avatar®Wizard couse開催地 アメリカフロリダ州デイトナビーチの夜明け

好きなファッション

--いつもご自分に似合う服を知ってらっしゃってお洒落な木谷さんはさすが神戸っ子だなと感じるのですが、木谷さんがお洋服を選ぶときの基準というか、好きなファッションってどういうのですか?

着心地重視です。着ていて体の動きを妨げないとか、自分が心地いいとか言うのを最優先で選びます。
子供ができてからは、子供にとって肌触りが良いかどうかも検討材料に。もう家にいるときは、肌触りの良いスウェットに、すっぴんで過ごすことも多いです。

ただ、今、新型コロナウイルスの影響で、家にいる時間がとても多くなりましたよね。
するともう本当に、スウェットにすっぴんでは、だれてくるというか・・・ 
そこで、どこにもお出かけしないけれど、仕事できるような、ワンピースやシャツを着て、お化粧をする日というのも作っています。 

その方が自宅で仕事をしていても捗る気がします。 改めて、女性にとって、ファッションやメイクって、自分のオンやオフのスイッチになる気がします。

その点、このワンピースはお洒落と着心地をどちらもかなえていて、息子に「どう?」って聞いたら、さわり心地がいいと太鼓判をもらいました。笑
子どもと一緒に過ごす時もお洒落が出来るっていいですよね。

おうちでもきちんとお洒落をしていると、体もしゃきっとするし、元気が出て、自然と免疫力もアップするような気がしています。

▼木谷さんご着用のワンピース。年代を問わず着れるお洒落なデザインです。


アラベスク模様のフレア袖ロングワンピース mode-4808

これからの目標

--Sawa a la modeのワンピースがとてもよく似合っていて、本当に素敵な女性の木谷さん。ますますファンになってしまいました。今日はとても興味深いお話をありがとうございました。まだまだお話を伺いたいですが、それはまた今度ZOOMお茶会に参加させていただくことにして、最後にこれからのビジョンをお聞かせください。

仕事を始める時にテレビかラジオかみたいな話をしましたけど、実は20代の頃からラジオのアナウンサーならおばあちゃんになるまで出来ると気づいていたんです。
今、まもなく50代になる立派な「おばちゃん」ですけど、最終目標は「おばあちゃん」になるまでです。
もちろんそれに向けて体力維持やメンテナンスはしなければいけませんが、自分のコミットとして、おばあちゃんと言われる年になるまで喋るというビジョンははっきり持っています。

ただ、これまでは「ラジオ」で喋ってきたんですけど「放送局」という枠組みはこの先どうなるかは分からないですよね。
なので、少し柔軟に捉えて「声」で伝える仕事のあり方、メディアのあり方を考えなければいけない時期にきているとは思います。

「アナウンサー」としてのみ人生の時間を使ってきたこれまでより、さらに幅を広げようと決め、楽しみながら活動しています。

43歳という遅目の妊活を経験したのをきっかけに、「食」と「健康」「意識の使い方」に関しては、これまで以上にこだわり、学びを深めました。

そのうちの一つが、必要最小限の栄養素を補給しながら断食する「ミネラルファスティング」。
自身が、断食の持つ細胞の若返り効果のおかげで、諦めかけていた「自然妊娠」で息子を授かったことが、人生最大の喜びに繋がったことから、産後は、ファスティングの効果とそのやり方をお伝えする「ファスティングマイスター」の資格を取得しました。


▲ 東京墨田区(社)分子整合医学美容食育協会本部にてファスティングマイスター1級試験スピーチテスト受験中

また、人間の意識のもつエネルギーの使い方を学んで、望む現実を手に入れることのできるAvatar®︎コースを受講しに渡米したことも、今のお仕事や子育てに直接役立っています。

このAvatar®︎コースをお伝えするavatar®︎マスターとしてもお仕事も10年前から始めているのですが、改めて始動しています。

 

--まだまだ人生半分、おばあちゃんになるまで声のお仕事を続けたいとおっしゃる木谷さん、これからもますます輝いてください。

今はインターネットで地方のラジオも聞ける時代、木谷さんの声を聞いてみたい方は、是非ラジオ関西をチェックしてみてくださいね!

ラジオ関西「歌声は風に乗って」
https://jocr.jp/utakaze/ 

 


木谷 美帆
フリーアナウンサー

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